コンブリック 1/350 CS35043
露・戦艦ペレスヴェート ・1901・日露
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全長133.4m・排水量12674トン・3段膨張式レプシロ機関3基・最大速力18ノット・254mm連装砲塔2基・152mm単装砲11基・75mm単装砲20基・381mm魚雷発射管5基
1895年11月21日、起工。1901年6月、サンクトペテルブルクで竣工。同年10月24日、極東に向け出港する。1902年(明治35年)4月9日、旅順に到着する。旅順艦隊に所属。1904年8月の黄海海戦ではパーヴェル・ウフトムスキー少将が坐乗し本隊の4番館として参加。艦隊司令長官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将の戦死後は嚮導艦となったため集中砲火を浴び大損害を受けた。12月上旬、旅順港内で203高地からの測定による日本陸軍第三軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃を受け着底する。旅順要塞降伏後の日本側の調査では、破損は直接の沈没原因ではなく4か所のキングストン弁の開放により喫水が下がり、破孔や舷側砲門などから浸水したものと推定されている。弾痕は多数あったが、舷側や弾火薬庫には損傷が無かった。
1905年1月1日、旅順要塞降伏にともない日本海軍に捕獲される。5月15日から6月29日にかけて浮揚作業を実施した。 8月17日、3隻(ペレスウェート、日本丸、薄雲)は旅順港を出発する。ペレスウェートは自力で日本に向かった。 日本本土へ回航中の8月22日附で他の戦利艦と共に軍艦籍に編入および改名、本艦は「相模」と命名される。一等戦艦に類別。 9月16日に横須賀へ到着。その後、横須賀海軍工廠で大修理を実施した。 10月23日、東京湾で凱旋観艦式が行われる。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》、丹後《ポルタワ》、壱岐《インペラートル・ニコライ一世》、沖島《ゲネラル・アプラクシン》、見島《アドミラル・セニャーウィン》)等も凱旋観艦式に参列した。
12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定。戦艦の等級廃止にともない、当時日本海軍が保有していた9隻(富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防)が『戦艦』に類別される。
1908年秋頃、横須賀工廠での修理工事完了。旧ペレスウェート級2隻(ペレスウェート、ポピエダ)は軍艦「相模」と「周防」となり、日本海軍艦艇として活動することになった。
1912年8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表の改訂を実施。「相模」は一等海防艦に類別変更される。 その後、日露親善のためロシア側に返還することとなった。 1916年4月4日、3隻(相模、宗谷、丹後)は軍艦籍より除籍。艦艇類別等級表からも削除。「相模」は「ペレスヴェート」に艦名を戻し、ウラジオストクで引き渡された。5月23日、同港外で座礁。 巡洋艦「笠置」が、横須賀海軍工廠と舞鶴工廠の職工を遭難現場まで移送した。7月9日、日本海軍により浮揚。8月に舞鶴工廠で修理を行った。
1917年1月4日、スエズ運河を通過して白海へ回航の途中、ポートサイド北方で独潜水艦が敷設した機雷に触れ沈没した。
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